تسجيل الدخول分厚い遮光カーテンの隙間から、細く鋭い朝の光が絨毯に突き刺さっている。
天蓋付きのベッドの中でゆっくり目を開けると、冷たくなった屋敷の空気が真っ先に肺の奥へと流れ込んできた。 昨夜、千尋が残していったハーブティーの甘い香りは、もう欠片も残っていない。 ――夜、温室のほうで音がすることがあります。 彼女の震える声と、恐怖に引き攣った横顔が、覚醒したばかりの脳裏に鮮明に蘇る。 ベッドから身を起こし、シルクのナイトガウンの襟元を掻き合わせた。 スリッパを履き、音を立てずにクローゼットへ向かう。靴箱の裏の隙間から、冷たい革張りのメモ帳を引きずり出した。 新しいページを開き、昨夜書き残せなかった言葉をボールペンで刻み込む。『千尋からの警告。温室で硬いものがガラスを叩く音がする。立ち入り禁止』 インクが紙の繊維に染み込んでいくのをじっと見つめる。 過去の花嫁たちに関する話題を極端に恐れる千尋が、わざわざ危険を冒してまで私に伝えた警告だ。温室には、彼女たちに関わる何か――お私の視線が、サイドテーブルに置かれた小さな小包に向けられる。 茶色いクラフト紙で包まれ、麻紐で十字に縛られただけの、ひどく質素な包みだった。天野家が用意するような豪奢な包装とはまるで違う、生活の匂いが染み付いたような外観。「……ありがとう。後で確認するわ。もう下がってちょうだい」「それでは、失礼いたします。おやすみなさいませ」 千尋が深く一礼し、部屋から退室していく。 カチャリと扉が閉まる音を確認し、私はすぐにサイドテーブルへと歩み寄った。 麻紐に指をかける。 少し毛羽立った麻の繊維が、指先にザラリとした感触を残す。 佳乃。 彼女は父の後妻として水科の家に入ってきた女性だ。常に父の三歩後ろを歩き、決して自分の意見を主張せず、没落していく家の家計を無言でやり繰りしていた、冷たくて影の薄い継母。 私が天野家に差し出されることが決まった時も、彼女はただ黙って俯き、一言の言葉もかけてはくれなかった。 その彼女が、わざわざ私宛に「忘れ物」を送ってくるだろうか。 私が水科の家を出る時、自分の意志で持ってきたのは、前世の記憶を頼りに買った数冊の実用書や、あの革張りのメモ帳くらいだ。忘れ物など、存在するはずがない。 引き出しからペーパーナイフを取り出し、麻紐を切断する。 クラフト紙を開くと、埃と古いインクの匂いがほのかに鼻を突いた。 中に入っていたのは、一冊の分厚い本だった。 海外の古典文学のハードカバー。水科家の書庫の奥で埃を被っていたのを、私が暇つぶしに自室に持ち込んでいた本だ。だが、わざわざ本邸にまで送ってくるほどの思い入れはない。 本を持ち上げると、表紙とページの間から、三つ折りにされた何枚かの紙の束が滑り落ち、絨毯の上にバサリと散らばった。 私はペーパーナイフを置き、その紙の束を拾い上げた。 一目見た瞬間、私の脳内の「広報としての事務処理センサー」が、強烈に反応した。 それは、手紙ではない。 白いコピー用紙に黒いトナーで印字された、数枚の『請求書』と『契約書』の写しだった。 宛
足の裏が絨毯を踏みしめる感覚だけを頼りに、私は薄暗い廊下を自室へと向かって歩いていた。 美津子の晩餐。 完璧なマナーで食事を終え、一切の涙を見せずにダイニングルームを退出した私の背中に、彼女が放った冷酷な視線の重みが、まだドレスの生地越しに張り付いている気がした。 彼女が用意した「重圧に耐えかねて心を病む娘」という筋書きを、私は真正面から踏み躙った。 次に彼女がどんな手を使ってくるかはわからない。だが、少なくとも今日、私は自分が誰かの思い通りに消費されるだけの生贄ではないことを、あの食卓で証明した。 自室の重いマホガニーの扉の前に着く。 そこには、私の帰りを待っていた千尋が、頭を下げて控えていた。「……お帰りなさいませ、凛花お嬢様」 彼女の声は、私が部屋を出た時よりも高く、どこか戸惑いを含んでいるように聞こえた。 私が泣き崩れることもなく、青ざめて震えることもなく、平然とした顔で戻ってきたことが、彼女にとっては予想外だったのだろう。「ええ。ただいま」 私が短く応えると、千尋は慌てて扉を開け、私を中へと迎え入れた。 部屋の空調は完璧に設定され、ほのかな防虫剤の匂いと清潔なリネンの香りが漂っている。 千尋が私の背後に回り、ドレスの編み上げを少しずつ緩めていく。 肋骨を締め付けていたコルセットの圧力が解かれ、強引に押し込められていた肺が、新しい酸素を求めて大きく膨らんだ。 スウッ、という深い吸気音とともに、肩の力がようやく抜ける。「お疲れ様でございました。すぐにお召し替えを……」 千尋の指先が背中のリボンを解きながらかすかに震えているのがわかった。「千尋さん」 私は鏡越しに彼女の顔を見つめた。「あなたは、私が途中で食事を放棄して、泣きながら逃げ帰ってくると思っていたの?」 ビクッ、と千尋の肩が跳ねる。「そ、そのようなことは……!」「いいのよ。それがこの屋敷の『普通』なのでしょうから」 私は鏡の中の自
「いいえ、お母様」 私の声は、自分でも驚くほど高く、澄んでいた。「ただ、あまりにも美味しいので、味わっていただいておりましたの。水科の家では、このような素晴らしいテリーヌは、めったに口にできませんでしたから」 ピタリ、と。 美津子のグラスを持つ手が空中で一瞬だけ止まった。 向かいに座る透のナイフの音も、停止した。「お父様の借金の件、ご心配いただきありがとうございます」 私は、美津子の目から一切視線を逸らさずに続けた。「おかげさまで、父もようやく肩の荷が下りたことでしょう。これからは、私が天野家の婚約者として、この素晴らしい環境に見合う人間になれるよう、努力するのみですわ」 私は再びナイフとフォークを手に取り、テリーヌの最後の一口を美しく切り分け、口に運んだ。 味などしない。ゴムの塊を噛んでいるようだ。 だが、私はそれを咀嚼し、嚥下し、ナプキンで口元を優雅に拭ってみせた。「……そう」 美津子の微笑みが、ほんの数ミリだけ、引きつったように歪んだ。「それは、頼もしいことね」 彼女の目から、獲物を甚振るような余裕の色が消え、代わりに、不気味なものを観察するような冷酷な光が宿った。 私が「泣いて崩れる可哀想な娘」の役を降りたことで、彼女の筋書きに、明確なエラーが発生したのだ。 次の皿が運ばれてくる。 メインの、真紅のソースがかかった鴨のロースト。 私はそれも、言葉を挟まず、完璧なマナーで切り分け、一口残らず胃の腑へと収めていった。 透は、相変わらず一言も発しなかった。 だが、彼のナイフは止まり、彼自身のメインディッシュは半分以上が手つかずのまま残されていた。 彼の視線が、テーブルのクロスに落とされたまま、一度だけ、微かに私の方へ向けられた気配がした。 驚愕か、それとも恐怖か。 そんなものは、今の私にはどうでもよかった。 私はもう、この屋敷の誰にも期待しない。……そう決めたはずなのに、彼の止まったナイフがまだ目の端に引っか
彼は、目の前のテリーヌを黙って切り分けている。 その動作は機械的で、彼の意識がこの食卓の会話から切り離されているかのようだった。 ただ。 ナイフを握る彼の右手の指先が血の気が失せるほどに白く鬱血しているのが見えた。 カチャッ、カチャッと、銀食器が陶器に触れる音が、不自然なほど細かく、何度も鳴っている。 彼は、無関心なのではない。 私の視線に気づいていながら、美津子の言葉に反発したいという衝動を、自分の内側で必死に殺し、抑え込んでいるのだ。 彼がここで私を庇えば、美津子の攻撃はさらに鋭さを増し、私への監視や精神的圧力は倍増する。あるいは、彼自身が美津子に対して背負っている「過去の死者たちへの罪悪感」という呪いが、彼が母に逆らうことを物理的に封じ込めているのかもしれない。 理由は、どうでもよかった。 結果として、彼は沈黙を選んだ。 私を一人で、この毒を含んだ食卓の中に放置することを選んだのだ。 肋骨の内側で燻っていた小さな期待の炎が、シュッと音を立てて消え去った。 ああ。 そうだ。誰も、助けてくれない。 前世の会議室で、同期の紗耶が泣き崩れ、私が極悪人に仕立て上げられていった時。 営業部の新堂も、直属の上司も、他の同僚たちも、みんなそうやって目を逸らし、自分の手元の資料だけを見つめて沈黙していた。 誰も私を庇わなかった。組織の『空気』に逆らうことのリスクを恐れ、私が生贄として消費されていくのを、ただ黙って見過ごした。 透も、同じだ。 彼がどんなに内面で苦しんでいようと、どれほど私を心配していようと。ここで口を開かない限り、彼は私を殺すからくりの一部でしかない。そう思うのは酷いとわかっていた。それでも、今だけは透の事情まで抱えていられなかった。 胃の奥から、冷たい泥水のような絶望がせり上がってくる。 隣の「誰も座らない席」が、まるで私を招き入れるように、虚無の口を大きく開けている気がした。 理沙も、二人目の花嫁も、この席で、美津子の優雅な毒を一人で浴び続けたのだろう。 誰も助けてくれない絶望と、自分の存在
ナイフとフォークが陶器に触れる、かすかな音だけがダイニングルームに響く。「凛花さん」 一口目を飲み込んだところで、美津子がふわりと微笑みかけてきた。「昨夜は、よく眠れましたか? 夜中にお部屋を抜け出して、お屋敷の中を歩き回っていらしたと耳にしたのだけれど」 ピタリ、と。 私のナイフの動きが止まった。 美津子の視線は、優しい母親の顔をしたまま、私の皮膚の表面を鋭利なメスで撫で回している。 黒瀬が報告したのだ。私が昨夜、中庭へ通じるガラス戸の前にいたことを。あるいは、別の監視の目が、私と透が中庭で接触していたことまで伝えているのだろうか。「……ええ。少し空気が乾燥していたせいか、寝付けず、喉を潤したくなりまして」 私はナイフの柄に指を添えたまま、表情だけは崩さずに答えた。「そう。お可哀想に」 美津子は、大げさに細い眉をひそめてみせた。「水科の古いお家とは、ずいぶんと勝手が違うでしょうからね。隙間風の入るお屋敷で育たれた方には、天野の完璧な空調は、少し息苦しく感じられるのかもしれないわ」 隙間風の入るお屋敷。 その一言が、テーブルの空気を急に重くした。「でも、安心なさってね。お父様のもとには、昨日、当家からの融資が正式に実行されたと連絡がありましたから」 美津子は、ワイングラスを優雅に持ち上げた。「これで、水科のお家も、毎日のように借金取りの影に怯える生活から解放されたはずよ。お父様も、さぞやホッとされて、昨夜はぐっすりと眠られたことでしょう」 私は、膝の上でナプキンを握りしめた。 借金取りに怯える生活。 それを、次期当主である透の目の前で、そして何人もの使用人たちが控えるこの公の場で、これほどまでに上品な言葉でラッピングして突きつけてくる。「あなたも、もう無理をして強がらなくてもいいのよ」 美津子の声は、どこまでも甘く、慈愛に満ちていた。「家を救うために、ご自分の身を犠牲になさったこと。わたくしたちは、ちゃんとわかっていますから。……こ
指先に、まだ微かな熱が残っている気がした。 昨夜、冬の夜風が吹き抜ける中庭で、透の左手首を握りしめた時の感触。 冷え切っていた彼の肌の下で、脈が早鐘のように打ち、そして火傷の痕へと伝わっていく不器用な体温があった。 彼は私を遠ざけようとした。僕に近づけば不幸になると、自分自身を呪いのように縛り付けながら。だが、その拒絶の奥にあったのは、私を傷つけたくないという痛切なまでの怯えだった。 ――あなたは呪われているわけじゃない。ただ、真実が見えていないだけよ。 私がそう告げた時、彼の瞳孔がほのかに揺れ、言葉を失ったあの顔が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。 自室の鏡の前で、私は自分の唇にコーラルピンクの口紅を引いた。 今日は、美津子が主催する本邸の晩餐がある。 昨日一日、透が仕事で不在だったこともあり、私はあの夜以来、彼と顔を合わせていなかった。 時計の針が午後七時を指す。 控えめなノックの音とともに千尋が迎えに来て、私は重いマホガニーの扉を開けた。 一階のダイニングルームへ向かう廊下は、シャンデリアの光が深紅の絨毯を照らし、完璧な静けさに包まれていた。だが、私の心臓の鼓動は、昨日までのそれとは少し違っていた。 透が、そこにいる。 彼が私の言葉をどう受け止めたのか。あの氷の仮面の奥で、彼の中で何かが少しでも変わったのか。 ほんの小さな、バカみたいな期待が、胸の底で小さな炎のように燻っていた。 ダイニングルームの重厚な両開きの扉が、使用人たちの手によって音もなく開かれる。 圧倒的な広さを持つ空間。 長大なマホガニーのテーブルの上座には、すでに天野美津子が座っていた。 今夜の彼女は、深いワインレッドのドレスに身を包み、デコルテには大粒のルビーのネックレスが血の滴りのように妖しい光を放っている。 そして、その右側。 透が、濃紺のスーツ姿で座っていた。 私が入室しても、彼は視線を一ミリもこちらに向けなかった。 背筋を真っ直ぐに伸ばし、手元のクリスタルのグラスを見つめたまま、まるで精巧に作られた蝋人形のように微動だ
視界が、白く濁っていた。 ピントが合わず、輪郭のぼやけた光の染みのようなものが、ゆらゆらと揺れている。 自分の手足を動かそうとした。 だが、手足は水を含んだ綿のように重く、思うようには動かない。空中でばたばたと不規則に揺れるだけだった。「あー、あー」 言葉の代わりに口からこぼれたのは、意味にならない息と、細く情けない鳴き声だった。 顔の前で、小さな手が頼りなく揺れている。 皺だらけで、赤くて、何かを掴む力すらほとんどない手。 その小ささを見た瞬間、胸の奥に安堵が滲んだ。 生きている。 どんな奇跡かはわからないが、もう一度、やり直せるのだ。 あんなふうに、悪意のある切り
ドアが背後で重い音を立てて閉まると、オフィスの喧噪が完全に遮断された。 シン、とした静寂。 遠くで車のクラクションが聞こえるだけの、無機質な空間。 一段、また一段と、階段を降りる。 パンプスのヒールがコンクリートを叩くカツッ、カツッという音だけが、やけに大きく響いた。 ブーッ、ブーッ。 スーツのポケットの中で、またスマートフォンが震えた。 骨に響くような、不快な震え。 取り出して、画面を見る。 見知らぬアカウントからの、直接のメッセージ。『人として恥ずかしくないの? 死ねばいいのに』 言葉は、見えない刃だ。 切り取られ、加工され、匿名という安全な場所から投げつけられ
「会社としては、橘さん個人の意図を問題にしているわけではありません」 人事担当の女は、柔らかな声で、けれど一切こちらに踏み込まない距離を保ったまま言った。「ただ、現時点では関係各所に大きな混乱が生じています。しばらくは出社を控えていただく可能性も含め、会社として適切な対応を検討します」 適切な対応。 その言葉の中に、橘日和の弁明が入る余地は、どこにもなかった。 午後。 オフィスには、目に見えない透明な壁が立っていた。 斜め向かいの紗耶の席は、空席だった。『ショックで過呼吸気味になって、早退したらしいよ』『そりゃそうだよね。信じてた同期に、あんな風に責任押し付けられそうになっ
カチリ、と。 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。 古いコピー機が吐き出す排熱。 トナーの焦げた匂い。 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始め







